【2024年入試解答速報】慶應義塾大学経済学部小論文

2024年の慶應義塾大学経済学部の入試が終わりましたね?

 

手応えはいかがでしたでしょうか?

 

さて、いち早く解答例を示したいと思います。

 

この記事を通じて、自己採点や今後の学習の参考にしていただければ幸いです。

 

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問題文

それでは問題文を見てみましょう。

 

課題文

世の中には、雑誌だけを読んで暮らしている人たちがあります。

たとえば、研究室の自然科学者たちは、その例であるといっていいでしょう。

本を読むことがないわけではありません。

しかし、どちらかといえば、読書の大部分は雑誌を中心にしています。

自然科学は進歩がはやいので、十年前の本はほとんど役に立たなくなり、それぞれの研究領域で専門雑誌に発表される論文を規則的に読んでゆかなければなりません。

また過去の論文でも、そのあまりにも専門的な多くの論文は、とても教科書に採録することができないので、古雑誌をさがして読むほかに、過去に行なわれた業績を知る方法はないのです。

自然科学研究室に付属している図書館で、専門雑誌のバックナンバーが一番大事な部分になっているのは、そのためです。

特定の研究対象について、研究者はそれまでになされた仕事を調べあげる必要がありますが、そういうことは雑誌のバックナンバーを利用することによって行なわれます。

もちろん、自然科学の領域にも古典的な仕事がないとはいえません。

ガリレオがこういうことをしたとか、ニュートンがこういうことをしたとか、最初に発表されたそういう論文はあるはずです。

しかし、そういう種類の自然科学的な古典を広く読んでいるのは「科学史」の専門家であって、一般の研究者ではありません。

科学者は自分の仕事を雑誌に発表し、他人の仕事を雑誌で知る-これが研究者の読書の大筋で、そのほかは、例外的な、あるいは補助的な読書ということになるでしょう。

社会科学者の場合には、しかし、様子が違います。

そこにも専門的な雑誌があり、学者は本を書くばかりでなく、研究論文の大部分を雑誌に発表し、また他人の研究論文を雑誌で読む。

そのかぎりでは、自然科学者の場合と同じことです。

しかし、社会科学的な仕事のなかには古典を必要とするものが多くあります。

たとえば、経済学者は、いまでもマルクスやケインズを読み、社会科学者 は、デュルケームやマックス・ヴェーバーを読むでしょう。

しかし多くの場合には、現在の研究を進めてゆくために、プラトンやアリストテレスまでは必要としません。

おおざっぱにいえば、社会科学者は、一方で必要な若干の古典を参照しながら、他方で絶えず専門雑誌を読んでいるということになります。

哲学者や文学者の場合には、その読書の範囲がどうしても、雑誌よりは古典にかたむくのがふつうでしょう。

その理由は、いうまでもなく、哲学や文学の領域では古典がいまでも生きているということです。

哲学にも、文学にも、歴史的な発展はある。

しかし自然科学と同じ意味での進歩はありません。

自然科学の場合には、一度確認された事実が、そのとき以来、万人の所有物になります。

どうしてその事実が確立されたかということを、あとから来た研究者がたどってみる必要はない。

確立された事実をそのまま受けとって、その先の事実を求めることに力をそそげばいいわけです。

たとえば、コッホが、結核という病の原因は人体のなかに侵入した結核菌であるということをたしかめました。

その事実は、その後も多くの人によって検証されて、確実な事実として認められています。

現在、結核を研究する人は、その原因が結核菌であるという前提に立って、その先の問題を調べ、その過程であきらかに前提と矛盾する事実に出会わないかぎり、もう一度その前提を検証してみる必要はありません。

そういうことをするよりも、前提をそのまま認めて、たとえば結核菌による免疫がどういう形で成立するか、人体外および人体内での結核菌の増殖を抑制するにはどういう手段を講じればよいか、そのほかコッホの当時には知られていなかった無数の事柄について、研究を進めてゆくために、結核の原因であることをたしかめたコッホの論文を読んでみる必要はない。

それが「一度確立された事実は万人の所有になる」ということの意味です。

ところが、哲学や文学の場合には、同じ意味で古典が万人の所有になるということはありません。

その仕事が作者の個性に結びつき、作者の個人的な経験とからみあっているからです。

シェークスピアの芝居が一度書かれると、それが万人のものとなり、その次の世代の劇作家は、シェークスピアのやったことの先へ進めばよろしい、というふうに簡単には事がはこばない。

シェークスピアがその仕事のなかで到達したものは、けっして完全には、ほかのだれのものにもなりません。そのなかの個性的な部分、作者の個人的な経験に密接に結びついている部分は、別の個性や別の経験を持った人に完全には伝達されないからです。

同じことは哲学についてもいえます。

デカルトは「人間は考える、ゆえに人間がある」といったのではなく、「私は考える、ゆえに私はある」といったのです。

自然科学の知識は、その「私」には関係していないで、自然にだけ関係しています。

自然は、歴史にも、時代の変化にも、文化の違いにも、まったく関係のない法則によって動きます。

しかし、哲学者の知識は、その「私」に関係している。

その「私」は歴史のなかにあり、時代によって違い、また、二つの違った文化のなかでは必然的に二つの違った「私」であるほかはないでしょう。

文学的な、または哲学的な古典が、何度読んでも読みつくせないものであるというのは、そういう古典のなかに一時代と、一文化と、一つの個性に固有の要素があって、古典を読むということは、その時代や文化や個性との、いわば対決を意味するからです。

もちろん、文学にも哲学にも、歴史的な発展というものがあります。

しかしその発展は、前の時代の仕事が、次の時代の仕事に完全に吸収されるということではなく、一面では次の時代のものの基礎として働きながら、他面ではそれ自身として、そのまま次の時代にも存在しつづけてゆくということです。

その意味での発展は、自然科学の進歩とはまったく違います。

(科学的な仕事は、それが厳密に科学的であればあるほど、一時代の知識は次の時代の知識のなかに完全に含まれてしまいます。)

たとえば、歌舞伎は、近松から、並木五瓶や鶴屋南北を通って、黙阿弥にいたりました。

だから、黙阿弥のなかにそれ以前の歌舞伎のすべてが含まれている、とはいえません。

近松がなければ、黙阿弥はなかったでしょう。

しかし、近松は黙阿弥のなかにまったく含まれているのではなく、黙阿弥のなかにないものも持っているのです。

たとえば、私たちはいまでも近松を見物し、黙阿弥を見物し、また、その後の歌舞伎作者の新作を同時に見物することができます。

そういう世界で仕事をしている者にとっては、当然、新作だけを追っているわけにはゆかず、新作のなかに含まれていない近松を絶えず読まなければなりません。

文学や哲学の進歩について語ることが危険なのは、そのためです。

すべての文学作品、すべての哲学的な 思想には、それが歴史的な発展の一局面であるという面と同時に、それ自身で完結し、一つの世界を形づくっている面があるのです。

もう一度別の言葉でいえば、二つの文学作品は時間的に前後の関係にあるとともに、また同時的に同じ空間に配列されているといってよいでしょう。

だから、哲学者はいまでもプラトンを読む必要があり、朱子学に立ちかえる必要があり、文学者は芭蕉や、近松や、西鶴を読む必要があるということになります。

設問A

「哲学にも、文学にも、歴史的な発展はある。しかし自然科学と同じ意味での進歩はありません」について、自然科学と哲学・文学との違いがなぜ起こるのか、課題文に則してその理由を200字以内で説明しなさい。

 

設問B

社会科学者が「おおざっぱにいえば、社会科学者は、一方で必要な若干の古典を参照しながら、他方で絶えず専門雑誌を読んでいるということになります」のような読書傾向を有する理由について考え、説明しなさい。
そのうえで、仮にあなたが社会科学者で、歴史上や現代の出来事を研究対象とする場合、どのような問いを、どのように立て、どのように検証していくあるいは探っていくと考えられますか。
具体的な問いを一つ挙げながら、課題文に則してあなたの考えを400字以内で記しなさい。

 

設問Aの考察と解答

それでは、設問Aについて、考察と解答を示しましょう。

 

考察

まずどんなときでも「記述は自分の言葉で書く」ということを忘れてはなりません。

課題文中の言葉をそのまま流用して合格できるほど、大学入試は甘くないのです。

必ず自分自身の言葉を使って書きましょう。

 

自然科学・社会科学・人文科学のバランス

今回は、私が常日頃から申し上げていることが大きく影響しました。

社会科学と人文科学と自然科学とのバランスの関係です。

これ、すごく重要なんです。

このような知識があるかないかで、実際に答案の出来が決まります。

だから「知識」というのは非常に重要だ、ということがわかります。 

 

設問Aの解答

哲学や文学には自然科学と同じ意味での発展がないのは、これらの分野が歴史や文化、個性に根ざしているためである。そもそも自然科学の進歩は、確立された事実に基づいて新たな発見を積み重ねる過程である。したがって、新たな情報を絶えず反映させることが必須要件となるのだ。しかし、哲学や文学は作者の個性や時代背景が深く影響するが、最新情報は特に必要ではない。したがって自然科学と同様の発展は、存在しないのである。(199字)

 

 

設問Bの考察と解答

 

次に、設問Bについて、考察と解答を示しましょう。

 

 

 

考察

設問の要求をきちんと把捉しましょう。

要求は2つです。

  • 社会学者の読書傾向の説明
  • 自分自身が社会学者となったときの具体的研究

ですね。

まずはこの点を、しっかり確認します。

 

 

コミットメント・エスカレーション

Bの前半も、社会科学と人文科学と自然科学とのバランスが重要になりました。

Bの後半に関しては「コミットメント・エスカレーション」の知識があればOK。

この知識は小論文の完全ネタ本《社会科学編》」にも記載があります。

とても重要な知識なのです。

小論文は知識無しでは書けないのですよね。

 

設問Bの解答

 社会科学者が最新の専門雑誌を読む一方で、哲学者や文学者と同じく古典にも重きを置く理由は、社会科学が人間行動学だからである。つまり人間は、古典的文献のもつ歴史的背景と最新情報との両方に影響されて行動するからなのだ。すなわち社会科学研究には、新しい理論構築と過去の学説との融合を現代の諸問題に適用することが求められる。だからこそ社会科学者の読書傾向は、自然科学と哲学・文学の中間に位置づけられる。

 さてここで、日本が国力差がありすぎる米国と戦争に至ったのか、しかもなぜ4年も続けたのかについて考察してみたい。自然科学的な発想では、その国力の差ゆえに、日本が勝てる要素は万に一つもないはずだ。しかし日本は、古くは元寇から近年の日清・日露・第一次大戦において、敗北を知らぬ民族であった。そうした背景がコミットメント・エスカレーションを引き起こし、対米開戦および無条件降伏にまで至ったのだ。

 

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